「感動」には気をつけようよ!
この言葉は、若い人たちのために、大人にこそ気づいてほしい。
11/8のフィギュア男子、羽生選手の姿とその姿に対するテレビの解説者や視聴者の反応を受けて、普段から感じていたその危険性を強く感じた。
その危険性の焦点は、羽生選手の個人の意思決定や行動ではない。その行動や話に「感動」する側の心理と、それが及ぼす若い人たちの意思決定への影響である。
羽生選手はフリー演技の練習中に他選手と衝突し、顔面からスケートリンクに倒れ、起き上がれなくなった。その後10分ほどで練習に復帰し、競技の本番でも頭に包帯姿で演技を行った。内田良さん(名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授)は、「危険」を感動モノの「美談」に転換する日本のスポーツ文化に警鐘を鳴らす視点から、以下で問題提起している。
“羽生選手に「感動」するだけでよいのか?誤ったスポーツ観が「選手生命」を奪う 脳震盪後、一日は安静に”(http://news.yahoo.co.jp/pickup/6137870)。
一部を引用すると、「日本のスポーツ文化は根性で危機を乗り越える場面を、拍手でもってたたえる。そこには感動の涙が溢れている。脳震盪の可能性が疑われるのであれば、どうか今回の出来事を機に、考え直してほしい。そうした「拍手」や「感動」は、選手の生命をむしろ危機に追いやる可能性があるのだということを」。
暴力の未然防止に取組む立場から、危険を感じる別の側面は、「感動」する人たちの反応が発する(悪気のない、そして無意識の)「困難から逃げない」男性観への強い誘い(いざない)である。つまり、男はこうあるべきだ、理想の姿はこうでなくてはならない、という「男らしさ」の縛りを強化するメッセージ性だ。
唐突に思われるかもしれないが、(デート)DV加害者男性に共通してある傾向は、「逃げる(回避する)」という考え方、意識や行動の選択肢がないことである。男として、彼らにとっては克服できるもしくは解決できる問題を回避するのは考えられない。というより、それ以前に、考える選択肢にもない。実際、彼らはどう問題や困難に取組むか、解決するか、を常に考えている。これによって自分がどれほど無理をしているかの自覚がない事がほとんどである。そうすると、無理をしない(あるいはそのように見える)パートナーや恋人の考え方や行動が許せない。彼らにとっては問題でもない日常の育児や家事や友達について、パートナーや恋人が抱える悩みはばかばかしく、まったく共感できない。
テレビで、雑誌で、そしてネットで、多くの人が「感動モノ」を見つけ、あるいは創りあげ、そして多くの人がその話題(ストーリー)を消費していく。純粋な意図もあれば、金儲けの意図もある。危険性の焦点は、その意図ではなく、羽生選手の個人の意思決定や行動でもない。その行動や話に「感動」する側の心理と、それが及ぼす若い人たちの意思決定への影響である。(S)